わたし、Twitterで流れている言葉に助けられたことがあって
それは聴覚障害を持った人の言葉だったんだけど
その人が聴覚障害を持って生まれたのは、
お腹にいるときにお母さんが風疹にかかったから。
正確な言葉は忘れてしまったけれど
その人は自分がお腹にいるときに
お母さんが風疹にかかってしまったことについて
負い目を持っていて欲しくないと
つぶやいていた。
母親がそのことについて悲しそうにしていると
自分のせいで彼女を悲しませているのだ
と、自分を否定してしまうから。
こんな身体に産んでしまってごめんね、
と謝られると
こんな自分はだめなのか
と、思ってしまうから。
この言葉に私はハッとして
こんな風にタマを悲しませたくないなと思った。
タマは聴覚障害があって、先天性の心疾患も持って生まれている。
だから落ち込みやすい気持ちの時には、ふと
「私が妊娠中に何かしたから、タマがこうなったのかな」
と思う時がある。
責任の所在を自分にかぶせて
悲劇のヒロインになることは簡単なの。
だけど、
「だから、なに?」
ってところで終わってしまう。
あまりにも非生産的な原因追求だから。
病気や事故や災害は
その人に降ってくる
運命みたいなものだから。
いつかタマに
「なんで私は耳が聞こえないの?」とか
「なんで心臓の病気なの?」って
聞かれたら
「なんでだろうね」
って答えるしかない。
そのことで悩んだり苦しんだりしてたら
そばにいて一緒に悩んだり、苦しんだり
するしかない。
私はそのことについて
許されたいんじゃなくて
タマの幸せな生活を見ていたい。
悩んだり、笑ったり、しているそばにいたい。
そして、いつか私の手を離してくれるのが私の夢。
さみしいけど。
そうしたら、
私の心の片隅にある「負い目」が
ついに、本当にどこかへ消えてなくなるだろう。
2014年10月10日金曜日
2014年7月11日金曜日
できるだけ
専門家がこう言う、
2歳までにこの成長曲線にのらなければその後、平均に追いつくのは難しい
3、4歳までに人工内耳で音を入れなければその後の言語獲得が難しくなる
6歳までにきちんと発音できなければその後、聴者のようにスムーズに話すことは困難
こういう期限付きの言葉を聞くたびに
私はあせる。
別にからだが小さくても
言葉が話せなくても
発声が明瞭でなくても
それでいい。
そう思っていても、
そうなったのは
自分がタマになにか与え損なったからではないか
そう思ってしまうから。
それはこれからタマが生きていく上で
すごく不利なのではないか
そう思うから。
聞いた直後はそのことで頭がいっぱいになって
もっといっぱい食べさせるにはどうしたらいいのか
はやく人工内耳をつけられるように主治医の先生に相談しようとか
毎朝発声の練習をしようとか
考えるんです。
でも1日、2日もたつと
無理に食べさせることはお互い不幸だな、食事は楽しくないとな。
人工内耳をつけてなくても意思疎通できてるな。
発声が明瞭でなくても、聞いてくれる人は聞いてくれるな。
とか思い始める。
体の大きさも、話す言葉も、その明瞭さも
結局そういう能力をもった人が求めているものじゃない?
例えば私とか。
きっと、人は似ているところが多いほど
安心してコミュニケーションできるから。
だから、そういうんじゃない?
だったら、私は全然似ていない人と
コミュニケーションできる人になってやろうじゃないの。
と、決心する。
でもきっと、専門家の言うことも真実。
それが、私の尻を叩いて
できるだけタマが食べれるよう
できるだけ早く人工内耳をつけられるよう
できるだけ発声が上手になるよう
自分ができるだけやろうって
落ち着くのです。
2歳までにこの成長曲線にのらなければその後、平均に追いつくのは難しい
3、4歳までに人工内耳で音を入れなければその後の言語獲得が難しくなる
6歳までにきちんと発音できなければその後、聴者のようにスムーズに話すことは困難
こういう期限付きの言葉を聞くたびに
私はあせる。
別にからだが小さくても
言葉が話せなくても
発声が明瞭でなくても
それでいい。
そう思っていても、
そうなったのは
自分がタマになにか与え損なったからではないか
そう思ってしまうから。
それはこれからタマが生きていく上で
すごく不利なのではないか
そう思うから。
聞いた直後はそのことで頭がいっぱいになって
もっといっぱい食べさせるにはどうしたらいいのか
はやく人工内耳をつけられるように主治医の先生に相談しようとか
毎朝発声の練習をしようとか
考えるんです。
でも1日、2日もたつと
無理に食べさせることはお互い不幸だな、食事は楽しくないとな。
人工内耳をつけてなくても意思疎通できてるな。
発声が明瞭でなくても、聞いてくれる人は聞いてくれるな。
とか思い始める。
体の大きさも、話す言葉も、その明瞭さも
結局そういう能力をもった人が求めているものじゃない?
例えば私とか。
きっと、人は似ているところが多いほど
安心してコミュニケーションできるから。
だから、そういうんじゃない?
だったら、私は全然似ていない人と
コミュニケーションできる人になってやろうじゃないの。
と、決心する。
でもきっと、専門家の言うことも真実。
それが、私の尻を叩いて
できるだけタマが食べれるよう
できるだけ早く人工内耳をつけられるよう
できるだけ発声が上手になるよう
自分ができるだけやろうって
落ち着くのです。
2014年5月15日木曜日
10秒抱っこ
お皿洗いの最中
出かける寸前
急ぎの道すがら
買い物の途中
洗濯物を干している時
急に「だっこ」っていう。
で、「これ終わったらね」
っていうと聞き分けのいい時もあるけど
だいたい「だっこ、だっこ、だっこー!」
ってかえってくる。
そんな時「えー、この用事終わらせたいのに」
っていう気持ちを少しおさえて
「じゃあ、10秒だけね」
って言って
ギューっと抱きしめ始めると
たいてい10秒以上抱きしめたくなっちゃうの。
ちょっと前、
いつも抱っこをせがんでいた時のはなし。
出かける寸前
急ぎの道すがら
買い物の途中
洗濯物を干している時
急に「だっこ」っていう。
で、「これ終わったらね」
っていうと聞き分けのいい時もあるけど
だいたい「だっこ、だっこ、だっこー!」
ってかえってくる。
そんな時「えー、この用事終わらせたいのに」
っていう気持ちを少しおさえて
「じゃあ、10秒だけね」
って言って
ギューっと抱きしめ始めると
たいてい10秒以上抱きしめたくなっちゃうの。
ちょっと前、
いつも抱っこをせがんでいた時のはなし。
2014年3月5日水曜日
ごめんって言うこと。
「ごめんで済んだら警察いらんわ。」
小学校の時、そんなことをよく言ってた気がする。
そう、人の心は奥深い。
ごめんていう言葉だけじゃ済まないことはいっぱいある。
私は結構いじける性格で
喧嘩しても
「はいはい、私が悪いんでしょ。ごめんね!もういいよ。」
とか、悪いと思ってなくても言っちゃって
その割にずっと相手に怒っていたりする。
そんな被害を度々被ってるのがオットさんで
いくら優しくても、5回に1回くらいはイラッとしているのがわかる。
いじける前に、ぐっとこらえて
「いや、私も悪いんかもしれへん、落ち着いて話してみよう。」
って思えるようになったのはつい最近のこと。
そこから喧嘩のたびに話し合いができるようになった。
話し合いができて、落ち着いてからやっと
「イライラしてごめん」って
言えるんだよね。
「ごめん」
ていう言葉はとても便利で、でも厄介だなあと思う。
気持ちを伴う「ごめん」を、私はなかなか言えないから。
怒りの中にある時、
悩みの中にある時、
悲しみの中にある時、
本当の「ごめん」を私は言えない。
「ごめん」ていうのは自己満足の言葉。
言ったからって、相手に許されるわけじゃない。
「ごめん」っていうのは周りの人を味方につけようとする言葉。
自分を正当化する態度。
いい言葉なのかもしれないけど
使うのは難しい。
だから、謝るときに
「ごめん」
っていう言葉があることは教えるけど
こどもに無理やり言わそうと、しないことにしてる。
小学校の時、そんなことをよく言ってた気がする。
そう、人の心は奥深い。
ごめんていう言葉だけじゃ済まないことはいっぱいある。
私は結構いじける性格で
喧嘩しても
「はいはい、私が悪いんでしょ。ごめんね!もういいよ。」
とか、悪いと思ってなくても言っちゃって
その割にずっと相手に怒っていたりする。
そんな被害を度々被ってるのがオットさんで
いくら優しくても、5回に1回くらいはイラッとしているのがわかる。
いじける前に、ぐっとこらえて
「いや、私も悪いんかもしれへん、落ち着いて話してみよう。」
って思えるようになったのはつい最近のこと。
そこから喧嘩のたびに話し合いができるようになった。
話し合いができて、落ち着いてからやっと
「イライラしてごめん」って
言えるんだよね。
「ごめん」
ていう言葉はとても便利で、でも厄介だなあと思う。
気持ちを伴う「ごめん」を、私はなかなか言えないから。
怒りの中にある時、
悩みの中にある時、
悲しみの中にある時、
本当の「ごめん」を私は言えない。
「ごめん」ていうのは自己満足の言葉。
言ったからって、相手に許されるわけじゃない。
「ごめん」っていうのは周りの人を味方につけようとする言葉。
自分を正当化する態度。
いい言葉なのかもしれないけど
使うのは難しい。
だから、謝るときに
「ごめん」
っていう言葉があることは教えるけど
こどもに無理やり言わそうと、しないことにしてる。
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